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小林市堤地区、水流迫地区の郷社、岩戸神社に300年以前から伝わる33番におよぶ神楽で、同社の祭典に奉納される。 |
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朝鮮出兵に兵を率いて出征した島津氏の軍勢は、泗川の戦いに於て、約1万の兵で、10数万の明の大軍と対戦した時、兵の士気を鼓舞するため、鐘、太鼓を打ち鳴らし、織竿の中に武器をかくし敵陣におどり込み、大勝を得たという。この勇壮な様子を舞踊化したものである。 |
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今から、400年前島津氏と伊東氏との争いにおいて、島津氏は、薩摩武士の武技の集団訓練の場として、士気を鼓舞するために陣中にて各種の戦法を取り入れ、ホラ貝、太鼓を打ち鳴らして踊らせたと言うのが起源である。
先踊りのうしろに三味線、太鼓、笛が入場し、そのうしろにほら貝を先頭にした踊り子が続きます。入場した踊り子は二手に分かれて縦隊あるいは円になり、鳴り物にあわせて勇壮に踊ります。 |
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山中地区は霊峰高千穂峰の北の登山口に位置し、修験者の中継仮宿の今坊権現社があった。棒踊りはそれらの修験者によって伝授されたもので、薩摩藩で隆盛を極めた至現流剣法の型を基本とした踊りです。 |
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| 別名を御陣屋踊りとも言われ、旧薩摩藩島津家に伝わる種子ケ島流と言われる陣太鼓に用いたものと言われる。 |
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| 文久2年、百姓与平親娘は、稲田の草とり中に抜いて投げた草のしずくが、畦道を通りかかった武士の袴の裾にかかってしまい血に狂った武士は、娘の面前で志賀段七の一刀のもとに与平を切り捨てた。以来3年、娘二人は父なき後の農耕の傍わら武芸を習い、姉はなぎなた、妹はくさり鎌をもって見事父の仇を討ち果たす悲愴可憐な物語りを舞踊化したものである。 |
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別名をめしげ踊りとも言われ、文治元年、後鳥羽天皇御代、肥後・薩摩を中心に唄い踊られた豊年踊りである。 |
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明治・大正の頃、鹿児島県の谷山あたりから今の永田町地区へ荷馬車業者が移り住み、昭和の初めには国分・隼人の業者も含め35戸の業者が移り住んでいた。その頃の馬踊りを継承したものが現在の馬踊である。 |
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平安末期の源平合戦の中で、源氏方の勇将熊谷次郎直實が平家方の武将平敦盛を播州須磨の浦において首を打ち取るまでの物語です。10人の踊り子が二列になり太鼓拍子木に合わせて歌にのって踊ります。 |
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| 胸に太鼓、背に孟宗竹に色とりどりの細かい紙の花びらをつけた矢旗を立て前後左右に激しく動く際に、矢旗がしなやかに揺れます。島津義弘が士民を鼓舞するために躍らせたといわれています。 |
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| 約400年前西川北馬関田(まんがた)城主が、郷士たちに娯楽として、又、士気を鼓舞するために奨励したといわれている。 |
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昔から青年男女により踊られており、はかまを着用し頭に長いハチマキをたらし、腰に刀を差し円陣を組みながら踊ります。(栗下、下大河平、五十市、池島) |
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島津義弘公の軍団が士気を鼓舞するため、朝鮮の役に踊ったのが始まりという。鉦と太鼓を打ち分けて前奏と後奏を回り踊り、中心で鉦が踊る。円陣を組んで勇壮な踊りです。 |
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太鼓方は、直径120cmもある太鼓を抱き、身長の3倍の矢旗を背負い、黒足袋、草履ばきに手笠をかぶり鉦方は陣笠、陣羽織、脇差、黒足袋、草履ばきで、それぞれ陣を整え勇壮活発に踊ります。 |
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飾笠をかぶり、絣の着物を着用した入太鼓2人が軽妙な動きで舞い踊りながら先導し。鉦、大太鼓の踊り手が2列になり、または4列になりながら、うず巻状に巻いたり、これをほどいたりして、小太鼓、鉦、大太鼓を三段に打ち鳴らして踊ります。 |
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| 矛を先頭に、鉈手は黒かすりの着物に黒タビ、鎌手は、白かすりの着物に白タビ、白木綿のハチマキに帯をしめ、タスキに手甲、脚絆にわらじばきで手に鉈と鎌を持ち唄にあわせて勇壮に踊ります。 |
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五穀豊穣を祈念して狭野神社に奉納する踊り。「ベブ」とは牛のことで、「ハホ」とは主婦のことを指す。木製の牛で田を耕し苗代田の整地をし、種子まきをする姿をユーモラスに表現する農耕神事。 |
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神楽宿で行う夜神楽の一種。舞は十二人剣など多人数で舞う勇壮なものから一人で舞う豪華な剣舞いなどがあり、33番からなる。霧島山麓に位置する祓川の神事の一つで12月第2土曜日に行われる。 |
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日本有数の修験道場でもあった霧島信仰のひとつの拠点として古い歴史をもつ狭野神楽三十三番は、修験道の流れを汲む貴重な文化遺産として知られています。地区の人たちにより守られてきた神楽には、「神々と人の関係」の原点があるように感じられます。 |
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御田植祭に奉納される棒踊りは、薩摩らしい勇壮果敢な踊りで、慶長年間、秀吉の命によって朝鮮に兵を出した島津義弘公が泗川の戦いに大勝して凱旋した祝いとして薩摩独自の剣法である示現流の型を取り入れて作ったものといわれ、一挙手一投足に迫力と緊張感がみなぎります。 |
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朝鮮出兵少し前に秀吉に攻め入られた際、薩摩随一の武将といわれた新納忠元が肥後八代の城を守り通し、ついに秀吉の大軍を撃退したことから、あまりのうれしさに島津の軍勢が顔にひげを描いて即興の歌で踊ったことが由来とされています。 |
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紙屋城攻め踊りは、戦国の世に島津氏・伊東氏の城攻めが繰り返されたことが語り継がれ、江戸時代の社会安定期にこの様子が歌や踊りに表現されて発生したといわれています。 |
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地域の特殊性を取り入れて狂言が創作されたその土地の人情や風俗をユーモラスに表現している兵児踊は、稲の予祝神事の田遊、御田植祭の奴踊がひとつになり、江戸時代末期、三味線を加えてできたものが原形といわれています。 |
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800年前、一ノ谷合戦に敗れた平家の残党を追ってきた源氏が、この土地に住み着き山村生活の苦労を慰めるために、華々しかった一ノ谷合戦の模様を思い浮かべながら舞踊化したのが鉦踊の始まりといわれています。 |
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